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●● 熱き思い 1930年当時、殆ど居なかった黒人プロデューサーであり監督でもあった。生き様がカッコいい! |
●● バイオ ヴァージニア州に生まれたジョージ・ランドル。義務教育はペンシルバニアとオハイオで受けている。オハイオ州のクリーブランドにある有名なクリーブランド音楽学校にて、ボイス・カルチャー学で学位を取得後に、セントルイスに居たウォルター・T・ゲラック下でも個別に学んだ。
シンガーとして、モンタナ州ヘレナにて「トーマス男性カルテット」としてデビュー。しかし歌手のしてのキャリアは、第1次世界大戦が始まり、戦争に従事したため中断された。第349砲兵旅団に少尉としてフランスにいた。
しかし戦争が終わり、すぐにブロードウェイに戻った。ミュージカル『How Come』や『Models』に出演。1926年には『My Magnolia』にも出演している。1930年は『The Green Pastures(映画邦題は緑の牧場)』では、ファラオ(映画版ではハイプリースト)を演じた。1931年には「黒人映画の父」と言われるオスカー・ミショーの初トーキー映画『The Exile』にも出演した。
1934年にはアメリカとカナダをコンサート歌手としてツアーをしている。しかし1936年ごろにオスカー・ミショーを見本として映画産業に興味を持ち始める。その年に映画版『緑の牧場』に出演した。しかしその映画で悪役を演じたことで「才能がある俳優たちが大手の映画で悪役に甘んじているのは残念な事だ」と、自分で脚本を書くことを思いつく。
同じ志をもった俳優でもあるラルフ・クーパーと出会い、「ランドル=クーパー・プロダクション」を設立。2人は急ピッチで『Dark Manhattan』の台本を書き上げた。そしてロサンジェルスにあった「グランド・ナショナル・スタジオ」にて撮影を開始した。プレミアを1937年1月27日にロサンジェルスの劇場で迎えることになっていたが、手続き代として13000ドル(約130万円)を求められ、6週間もプレミアを待つ羽目となった。
無声時代からトーキー時代になった事で経費が増えた事、そして不景気が映画産業... 特に黒人インディペンデント映画を直撃したが、『Dark Manhattan』はヒットした。
その後はソロでジョージ・ランドル・プロダクションを設立。1938年には当時人気で、その彼のデビュー作でランドルは出演していた事もあって、歌うカーボーイ、ハーブ・ジェフリーズ主演の『Rhythm Rodeo』を制作・監督・脚本も手がけた。その映画も順調に成功させ、次回作『Midnight Shadow』の予算も手に入れ完成させた。ロマンスに殺人事件ミステリーにコメディと変わった組み合わせではあった。しかもその後は別のプロダクションと組み、相互的に有利だったにも関わらず、なぜか1939年の『Midnight Shadow』が最後の作品となった。
その後1944年には、ブロードウェイに戻り、サミー・デイビスで映画化もされている『Anna Lucasta』にて主人公の女性の父を演じ好評を得た。
1973年に78歳にて他界している。 |
●● トリビア & etc... |
●● 主演作 Actor* Harlem on the Prairie (1937) ... Sheriff *The Green Pastures (1936) ... High Priest * The Exile (1931) ... Bill Prescott Director * Midnight Shadow (1939) * Rhythm Rodeo (1938) Writer * Rhythm Rodeo (1938) (writer) * Dark Manhattan (1937) (original story) / (screenplay) * Camp Meetin' (1936) (Short) (dialogue) / (story) Producer (4 credits) * Midnight Shadow (1939) (producer) * Double Deal (1939) (executive producer) * Rhythm Rodeo (1938) (producer) * Dark Manhattan (1937) (executive producer) |
●● 受賞歴 |
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●● インフォサイト http://www.imdb.com/name/nm0709850/https://en.wikipedia.org/wiki/George_Randol Not available from Allcinema |
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